団塊世代の想い出

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出来事

 主な出来事

新東京国際空港(成田空港)が開港
1978_1.jpg後方、過激派テロによる黒煙 前方、到着した日航第1便1978_1_2.jpg初の到着、日航第1便1978年5月20日、新東京国際空港(現・成田国際空港)が開港した。当初、地元住民の根強い反対にあい用地買収の難航や、革マル派を含む新左翼各派の反対派集団による妨害により着工が遅れていた為、A滑走路(4000m)1本のみでの開港だった。
本来は16日開港の予定ではあったが、過激派により管制塔の機器が破壊され、開港がこの日まで延期された。開港式典は警視庁・機動隊の戒厳の中で行われた。
翌日の21日には、ロサンゼルス国際空港発のダグラスDC-8-62F貨物機(日本航空)が、第1便として着陸。
同日、京成電鉄空港線が開業され、京成上野駅からの特急スカイライナーが運行開始された。
その後も過激派による妨害が相次いで起き、新東京国際空港は前途多難の開港だった。

宮城県沖地震
1978_7.jpg1978年6月12日17時14分44秒、マグニチュード7.4の地震が発生した。震源地は宮城県沖の海底、仙台市では震度5を観測、東京でも震度4を記録した。
被害は宮城県を中心に1都6県に及び、死者28人、負傷者1万1028人の被災者を出し、多くの死傷者はブロック塀の倒壊によるものだった。
地震の影響で仙台市の電気、水道、ガスなどのライフラインが破壊され、交通機関も停電による信号の停止等で麻痺し大交通渋滞を招いた。この地震により家屋倒壊被害が甚大であった為、後の1981年に執行された建築基準法の改正に繋がった。

ドラフト江川問題 空白の一日
1978_2_1.jpg1978年11月21日、ドラフト会議を翌日に控えた午前中に巨人は江川と入団契約を締結した。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。これが『空白の一日』と呼ばれる所以である。
巨人は野球協約の盲点を付き入団確保に動いたが、セントラル・リーグ鈴木龍二会長が契約を無効とする裁定を下し、ドラフト会議では巨人はボイコットしたものの、江川は4球団からの指名を受け阪神が指名権を獲得した。
これに反発する巨人は、セ・リーグを脱退して新リーグを作る構想を公言した。
その後、12月22日のプロ野球実行委員会において、「江川はドラフト会議の規約通り阪神と入団交渉をし獲得させる。その後、巨人にトレードさせ、この問題を決着させて欲しい」というコミッショナーの裁定が下った。
1978_2_2.jpgこれを受け、翌年の1979年1月31日、阪神が江川と入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。深夜に交換トレードが正式決定された。(正式入団は開幕日4月7日)
江川は念願の巨人入りを果たしたが、マスコミや野球ファンから非難の声が多く、これにより悪役のイメージが付いてしまった。(後に『エガワる』という流行語までも生まれた)
一方、阪神に移籍した小林繁には同情の声が多く集まり、また本人も奮起して22勝、防御率2.89という好成績を挙げ、2年ぶりに沢村賞、ベストナインを獲得した。

伝説の解散コンサートキャンディーズ・ファイナルカーニバル』が開催
1978_3_1.jpg1973年9月、『あなたに夢中』でレコード・デビューしたキャンディーズは、人気絶頂の1977年7月、日比谷野外音楽堂のコンサートで突然引退宣言をした。3人は同年9月末で解散する意思を固めていたが事務所側の強い説得により、解散は半年間先送りされる事になった。
この解散宣言でキャンディーズ人気は更に過熱、ラストシングルの「微笑がえし」では初のオリコン1位を獲得した。
そして最後の日、1978年4月4日、後楽園球場で『キャンディーズ・ファイナルカーニバル』が催された。5万5千人のファンの大声援の中、51曲を4時間かけ熱唱、4年半の芸能活動にピリオドを打った。
キャンディーズの3人は、最後に「本当に私たちは、幸せでした!!」とファンにお礼を述べステージから去っていった。
この解散コンサートをマスコミ各社は歌謡界史上最大のショーと絶賛。「ザ・ピーナッツさよなら公演」以来2例目となる解散コンサートだった。尚この模様はテレビでも中継され後日放送、高視聴率を獲得した。LinkIconキャンディーズ情報

ンクレディー旋風
1978_6.jpgピンクレディーは、1976年 に 日本テレビ・オーディション番組「スター誕生 !」の決勝で合格、スカウトされ、8月25日シングル『ペッパー警部』でレコード・デビューを果たした。
そしてセカンド・シングル『 S・O・S 』、翌年の1977年には『カルメン'77』、『渚のシンドバッド』と立て続けにヒットを飛ばした。暮れにリリースした『 U F O 』は、1978年のレコード大賞を受賞。そして『サウスポー』『モンスター』『透明人間』とリリースする曲全てが大ヒット。大人から子供までに愛され国民的アイドルに君臨した。
そして大人も子供も皆、ピンクレディーの振り付けを真似するといった一大ブームとなった。

インベーダーゲーム・大流行
1978_5.jpg1978_5_2.jpgこの年、ゲーム機メーカー・タイトーがゲームセンタ-に設置した「スペースインベーダー」が大ヒットした。このゲーム機が喫茶店に設置されるようになるとサラリーマンが熱中、瞬く間にブームとなった。続々と他社メーカーも参入、喫茶店では昼間から満席状態という賑わいをみせた。また、打ち方技として「名古屋打ち」なるものも出現。
この影響で、暇つぶしでするパチンコよりも面白い事から、客足が遠のいたパチンコ店が倒産するほどの一大ブームとなった。
後の1980年には、それまでギャンブル性が高いという理由から許可が下りなかった大量出玉機種「三共・フィーバー」が認可され、パチンコ業界もやっと息を吹き返し、パチンコ・フィーバーブームに繋がっていった