団塊世代の想い出

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出来事

 主な出来事

青酸コーラ無差別殺人事件
1977_3.jpg1977年1月3日深夜、新幹線ビュッフェで働く従業員の男女6人が宿舎に戻る途中、東京・品川駅近くの公衆電話に置かれていた未開封のコカ・コーラを持ち帰った。宿舎に着き、その内の一人、アルバイトの男子高校生(16歳)が口にした。異様な味を感じ、すぐに吐き出したが意識不明の重体となり、救急車で品川総合病院に運ばれたが、まもなく青酸中毒による死亡が確認された。
4日朝、東京・品川駅から近い港区高輪3丁目付近の歩道で作業員風の中年男性(46歳)が倒れているのを発見され、病院で死亡が確認された。こちらも同様に青酸中毒死だった。
警視庁は近隣署の警官を動員して辺り一帯を捜索した所、同日昼頃、品川区北品川1丁目にある商店の赤電話に、青酸入りのコーラが置かれているのを発見した。
警視庁科学検査所で分析した結果、毒物は青酸ナトリウムであることが判った。
一連のコーラは、東京コカ・コーラボトリング会社多摩工場製である事までは掴めたが、他に物証が乏しく、事件は謎を多く残したまま、1992年1月4日時効となった。

ダッカ日航機ハイジャック事件
1977_2.jpgダッカ空港に向かう日航特別機1977年9月28日、シャルル・ド・ゴール国際空港(フランス・パリ)発 東京国際空港(羽田)行きの日本航空機472便(機長以下乗員14名、乗客137名)が、経由地のムンバイ空港(インド)を離陸直後、武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に向かっていたが、進路を変更しダッカ国際空港(バングラデシュ)に強行着陸した。
犯人グループは日本政府に対し、人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート:約16億円)と日本で服役及び勾留中の赤軍派メンバー他思想家(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)9名の釈放を要求。
10月1日、神谷尚男検事総長と福田一法務大臣が、今回の「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した中、福田赳夫内閣総理大臣が「一人の生命は地球より重い」と述べ身代金600万ドルの支払い及び身柄拘束中の引き渡しを決断。
釈放要求された9名の内、3名(植垣康博、知念功、大村寿雄)が日本赤軍とは思想が違う理由から釈放を拒否。6名の釈放犯は身代金600万ドルと共に、石井一運輸政務次官と日本航空社長他役員及び運輸省幹部が政府特使として連行、日本航空特別機でダッカ国際空港へ輸送された。
10月2日、人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放されたが、10月3日に残りの人質を乗せたまま離陸、ダル・エル・ペイダ空港(アルジェリア)に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。残りの人質は無事解放され事件は終結した。

スーパーカーブーム
1977_1.jpg週刊少年ジャンプで連載された池沢さとしの漫画『サーキットの狼』が発端となり、スーパーカーブームがおきた。子供達の間で爆発的なブームとなり、コカ・コーラなど清涼飲料水の王冠の裏にはスーパーカーが印刷され発売されたり、スーパーカーの形をした消しゴムなども販売された。テレビでは、クイズ番組『対決!スーパーカークイズ』や、『とびだせ!マシーン飛竜』などのスーパーカーを題材としたテレビアニメが続々と放送された。
「サンスター・スーパーカー・コレクション77」などのスーパーカーショーも開催され、高級カメラを持った少年達が長蛇の列を作り、マスコミに社会現象として大きく取り上げられた。
このブームも1978年頃には収まり、子供達は電車に興味を移しスーパーカーブームは沈静化していった。

ホームラン世界新記録・756号を達成
1977_5.jpg1977年9月3日 、巨人の王貞治選手は後楽園球場で行なわれた対ヤクルト戦で、第2打席の3回表に鈴木康二朗投手の投げたシュートを右翼席中段へホームラン。
米大リーグ、ハンク・アーロン選手の持つ記録、755本を抜く756号のホームラン世界新記録を達成した。
この瞬間、球場内では大歓声が沸き、待ちわびていたファンは新記録に興奮した。
このニュースは米国でも大きく取り上げられ、新聞やテレビで詳しく報道された。
また、ロサンゼルス・ドジャースタジアムでは、試合中に大記録達成を電光掲示板で「王さん、偉大な生涯ホームラン756本樹立おめでとう」と流し、5万人の観衆に伝えた。
2日後の5日、大記録達成をたたえ国民栄誉賞が創設され、福田総理大臣から初の国民栄誉賞が贈られた。

「なんちゃっておじさん」出現!?
『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』が、都市伝説の一つとして視聴者からのハガキを紹介。その後『タモリのオールナイトニッポン』でも話題として取り上げた事により、電車の中で「なぁんちゃって」と人を笑わすおじさんがいるとの噂が立ち始めた。翌年の1978年2月には、朝日新聞に尋ね人広告までが掲載されるという異常ぶりにまで発展していった。
この話しは、のちに放送作家「小森豪人」の作り話とわかり沈静化した。