主な出来事
ハイセイコー・ブーム戦後の高度成長期、古郷を離れ集団就職で都会に就いた若者達がいた。馴染めぬ都会の華やかさ、古郷への想い、計り知れぬ孤独の寂しさ、純粋な彼等はそれでも頑張って働いていた。そんな中、彼等に共通するヒーローが出現した。
それは『ハイセイコー』である。
1970年、北海道日高・武田牧場で誕生。1972年7月12日、大井競馬場での新馬戦。競馬ではメジャーな中央競馬に対し、マイナーな地方競馬でのデビュー初勝利。ハイセイコーは初戦から6連勝と他を圧倒する競馬をし、格の違いを見せつけた。その戦歴を買われ1973年には中央競馬に移籍。名も無い地方から立ち上がり中央へと、それは集団就職する若者達と共通する部分があった。中央競馬では「ダービー」への第一歩、弥生賞に初勝利、続く皐月賞でも勝利した。ハイセイコーの勝ち進む姿に、無名の地方競馬出身でもメジャーな世界でデビュー出来るんだ、との思いが当時の若者達に夢と感動を与えた。「ダービー」では圧倒的な支持をされ1番人気に。しかし、爆発し先行する人気に気負いが入ったのか、タケホープの3着に破れるもハイセイコーの人気は衰えない。この頃から競馬を知らない人々からも関心を持たれるようになり、競馬場のダーティなイメージが払拭されていった。競馬場には家族ぐるみの観戦者が訪れ、また馬券は買わずともハイセイコーを見たいという若い女性も観戦するようになった。
1975年1月、ハイセイコーは東京競馬場でファンに惜しまれつつ引退式が行われ、北海道での種牡馬生活を開始した。引退直後、ハイセイコーの主戦騎手だった増沢末夫が歌う『さらばハイセイコー』が発売され、45万枚を売り上げるヒット曲となり、未だ衰えぬハイセイコー人気を物語っていた。当時、「東京都ハイセイコー様宛て」だけで郵便物が届いたとも言われている。種牡馬引退後、北海道新冠町の明和牧場で余生を過ごしたハイセイコーは、2000年5月4日その生涯を遂げた。
オイルショックトイレットペーパー買い占め騒動1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発。産油国が相次いで大幅な値上げと産油の供給制限を発表し、世界は深刻なオイルショックに見舞われた。
10月19日、当時の通産大臣・中曽根康弘が「紙節約の呼びかけ」を発表した事により、「紙がなくなる」という噂が流れはじめた。
11月1日、大阪のストアで特売広告(激安の為にすぐ売り切れてしまう意味から書いた「紙がなくなる!」)に勘違いしたお客が殺到。特売品(通常の半額)が売り切れた為に、通常商品を店頭に出した所を、新聞社は「あっと言う間に値段は二倍」と書いた事が切っ掛けの流言から全国各地で噂が飛び火し広まっていった。
これにより、便乗値上げが横行、デパートやスーパーにはトイレットペーパーを求める顧客で殺到した。また、店内トイレに備え付けのペーパーまでも盗難にあうという大パニックだったが、翌年3月には沈静化されていった。
豊川信用金庫・取り付け騒ぎ事件
事の発端は、1973年12月8日、下校中の電車内で、豊川信用金庫に就職が決まった女子高校生とその友人達の会話からだった。友人達は「信用金庫は危ないよ」(金融機関は強盗に狙われ危険という意味で)と軽い気持ちで言ったのだが、就職が決まっていた彼女は、それを真に受けて親戚にその事を話し相談したのだった。そこからその話題が広まり、また、話しには尾ひれが付いて伝わってしまった。
「信用金庫が危ないらしい」から「危ない」、そして「潰れる」と噂は誇張されて伝わっていった。
12月13日には、豊川信用金庫に解約に訪れる預金者で殺到した。
12月14日、豊川信用金庫は事態の収拾の為に声明文を発表したが、これがかえって混乱させ、「職員の使い込みが原因」、「理事長が自殺」という二次デマまでもが発生してしまった。
その日の夕方、マスコミ各社はデマであることを報道し騒動の沈静化を図る。
翌15日には、大蔵省及び日本銀行が同信金の経営保障をすると発表。また、自殺したと噂された理事長自らが窓口対応をした事により、事態は沈静化に向かった。
同棲ブーム
前年の1972年から、週刊漫画アクションで連載された漫画「同棲時代」が人気となり、アパートでの同棲生活に憧れる若者が増えていった。この漫画が映画化された『同棲時代 〜今日子と次郎〜』が松竹より4月14日封切られた。劇中には由美かおるの入浴シーンがあり、また映画宣伝用ポスターにも彼女のヌードが使われ、話題となった。
また、フォーク・グループ「かぐや姫」が同棲生活を歌にした『神田川』が大ヒット。同棲生活のブームとなっていった。