団塊世代の想い出

出来事

 主な出来事

ビキニで水爆実験 第五福竜丸が被曝
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中に、ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験に遭遇し被爆した。
実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していたが、夜空に輝く閃光とキノコ雲を目撃し、空から降ってきた灰を浴びた。船員達は肌が黒ずんで体調に異変を感じ始めた為に操業を中止し、14日、静岡・焼津港に帰港した。23名の全乗員は頭痛や吐き気、火傷、下痢などの症状を訴え検査、原爆症と診断された。また船体や水揚げされた魚類からも強い放射線が検出された為に船体は隔離係留され、魚類は廃棄処分された。
この事件をスクープした読売新聞が「死の灰」と名付けて報道した事で、初めて事件が明るみに出た。
それにより、マグロ等の魚類が大量廃棄された事や、残留放射線に対する危惧から魚肉の消費が落ち込むなど、社会的に大きな影響を与えた。
更に5月16日から降り始めた雨が放射線を含んでいた為、不安は飲み水や野菜にまで及んだ。
被爆から半年後の9月23日には、重症だった久保山愛吉無線長が「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残し、被爆による血清肝炎で死亡した。

洞爺丸台風 世界史上3番目の海難事故
1954年9月26日、台風15号は、本州中国地方を日本海に抜け、速度を速め午後5時過ぎには、北海道・道南地域に達すると予想されていた。
台風による暴風雨の中、青函連絡船「洞爺丸」は乗客と乗組員1,314人を乗せ、午後6時36分に函館を出航した。出航後まもなく洞爺丸は瞬間風速50mの強風に押し流されエンジンに故障、七重浜で高波を受けて座礁、転覆し沈没した。
強風と夜間の暗さで救助は思うように捗らず、生存者は自力で岸まで泳いで助かった僅か177人だけであり、死者・行方不明は1.155人にのぼった。
他にも9隻の大型船が港内や港外に台風の通過を待っていたが、港外にいた「第十一青函丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」の青函連絡貨物船4隻が沈没、乗員276人が亡くなった。
この台風による海難犠牲者は合わせて1,431人になり、沈没した5隻の乗客乗員1,632人中、生存者は僅か201人という戦後最大の大惨事となった。
また世界でも1912年4月に沈没した旅客船「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」、に次ぐ世界史上3番目の海難事故となった。
そして、この事故を切っ掛けに青函トンネル建設計画が急速に具体化し始めた。
後に気象庁は、この台風を「洞爺丸台風」と命名した。

自衛隊 発足
1954年6月9日、防衛庁設置法と自衛隊法が公布され、7月1日に陸海空の自衛隊が発足した。
元々、1950年の朝鮮戦争勃発時にGHQ(連合国軍総司令部)の指令により警察予備隊が発足した事が始まりであった。1952年には、警察予備隊及び海上警備隊は、それぞれ保安隊、警備隊として再編された。
そして今回新たに領空警備を行う航空自衛隊も新設。陸・海・空の各自衛隊が成立した。また同日付で防衛庁設置法も施行されている。
自衛隊法によると、「自衛隊は国家の平和と独立を守るために日本を防衛する組織」とされ、自衛官15万2千人の自衛官を配属した。

マリリン・モンロー 来日
前年の1953年に公開された米国映画「ナイアガラ」に主演しセクシーなモンロー・ウォークで一躍脚光を浴びたハリウッドのスター女優・マリリン・モンローは、夫のジョー・ディマジオ(大リーガー選手)と新婚旅行を兼ね、1954年2月1日に日本を訪れた。羽田からはオープンカーでパレードも予定されていたがファンが殺到した為、急遽中止された。モンロー一行はそのまま帝国ホテルへ向い、宿泊した。
翌2日、ジョー・ディマジオの記者会見が開かれたが、質問はマリリン・モンローに集中され、「モンロー・ウォークはいつごろから」との質問に、「よちよち歩き出した時から。生まれて6か月目ぐらいかしら」とジョークで切り返した受け答えは見事だった。また、「夜は何を着て寝ますか?」との質問に、「シャネルの五番よ」と答えたのは有名なエピソード。
滞在中は、米軍キャンプの慰問やドライブなどを楽しみ、栃木・那珂川河畔の国際ホテルで宿泊した際、訪れていたファンに窓辺からカーネーションの花びらを撒き、投げキッスをするなどのファンサービスをした。
25日、羽田空港から午後2時7分発サンフランシスコ行の飛行機で帰国した

日本初の『缶入りジュース』発売
1954年4月28日、 明治製菓が日本初の缶入りジュース『天然オレンジジュース』を発売。
当時は今のようなプルトップタイプではなく、缶の上部に小さな缶切りが付いており、飲み口と空気口の2箇所の穴を開けて飲むタイプだった。それまでのジュースはビン詰めで販売されていたが、この発売により缶入りジュースが普及し各社が発売するようになった。また、1965年以降は現在のようなプルトップタイプに切り替わっていった。

第1回モーターショー 開催
1954年4月20日、日本で初の本格的自動車ショー『全日本自動車ショウ(現・東京モーターショー)』が、東京・日比谷公園で開催された。参加企業は254社が出品、267台の車が展示された。期間は29日までの10日間、この期間の入場者数は54万7千人を数え、この種のイベントでは過去最大を記録した。
展示車は二輪車が最も多く、軽自動車も含めた三、四輪の商用車、大型トラック、バスが並び、国産乗用車を出品したメーカーは、プリンス、トヨタ、日産、オオタの4社の17台だけだった。

怪獣ブーム ~ ゴジラ ~
1954年11月3日、ゴリラとクジラを組み合わせた「水爆大怪獣・ゴジラ」が東宝で公開され、観客動員数は961万人を記録した。この円谷英二による特殊撮影が大ヒット。これが怪獣ブームの始まりとなった。この映画は3月1日にビキニ環礁の核実験により被爆した第五福竜丸事件を切っ掛けに製作されたと言われている。また1956年には米国でも上映され大きな話題を呼んだ。