主な出来事
バカヤロー解散1953年2月28日に開かれた衆議院予算委員会で、吉田茂首相と西村栄一議員(右派社会党)との国際情勢に関する質疑応答中、吉田茂首相が西村栄一議員に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことが切っ掛けとなり衆議院が解散された。
吉田茂首相は答弁を終えて席に着く際、小声で「「バカヤロー」と呟いた言葉が偶然マイクに拾われ、事は重大となってしまったのである。
すぐに吉田茂首相は西村栄一議員に対し謝罪、発言の撤回をしたものの、右派社会党は議会軽視と捉え、懲罰委員会に付託動議を提出した。この採決の際、自由党内では鳩山一郎氏系の民主化同盟派と広川弘禅氏派が欠席した為に可決されてしまった。
更に3月2日、内閣不信任決議案も提出され可決された。これを受け吉田茂首相は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われた。
この事により、この解散は「バカヤロー解散」と呼ばれた。
電化元年 〜家庭用電化製品の普及〜電気洗濯機を中心に家庭用電化製品が普及し始めた1953年を、電化元年と呼ばれた。
様々な電化製品が開発し発売されていったが、庶民にとっては高嶺の花であった電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビを指して「三種の神器」と呼んだ。
特にテレビに於いては、日本テレビの街頭テレビの影響が最も大きく、それまで海外から輸入されいていた高価なテレビも、シャープが国産初の白黒テレビを発売(価格:17万5,000円)した事にもより益々主婦の憧れの的となった。また三洋電機の洗濯機は従来製品の半値近い価格(2万8500円)で発売され爆発的に売れ普及された。
テレビ放送開始開始元年! ~街頭テレビ・プロレス 力道山 ブーム~1953年2月1日、日本放送協会(NHK)がテレビ放送を開始。同年8月28日に民放初の放送が日本テレビで開始された。当時、殆どの家庭では高価なテレビを持っていない為、日本テレビがテレビ放送を普及させる為の策として街角にテレビを設置した。
これが街頭テレビの始まりである。街頭テレビでは「プロレス」が一番の人気であり「力道山の空手チョップ」を一目観ようと多くの人々が集まり歓声を上げて応援していたと言う。荒廃した戦後の日本、米国に敗れた日本が、力道山の空手チョップにより外国人レスラーを次々と倒していく。我らが英雄、そんな力道山は一躍国民的ヒーローとなった。
そして、日本初の国際プロレスリング大会が翌年の1954年2月19日から2月21日まで蔵前国技館で開催された。力道山・木村組対シャープ兄弟戦は、日本テレビ、NHKテレビの両局で放映されプロレスブームは更に過熱し、日本テレビが提供した街頭テレビには道路まで人が溢れ社会現象を起こすまでに至った。
「君の名は」真知子巻きブーム1952年4月10日から放送開始されたNHKラジオ放送の「君の名は」が女性の間で大人気となった。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と来宮良子のナレーションが流れ、ラジオドラマが始まる。毎週木曜の放送時間帯である夜8時半から9時までの間はこの放送を聴くため、銭湯から女性が消えたたという神話が生まれた程の人気番組だった。
1953年9月には松竹より映画化(主演:佐田啓二/岸恵子)され、岸恵子演じる「氏家真知子」が巻いていたストールを「真知子巻き」と呼び若い女性の間で大流行した。
「NHK紅白歌合戦」テレビ放送開始
NHK紅白歌合戦は正月の特番として、1951年1月3日にてNHKのスタジオでラジオ放送が開始された。当初ラジオのみの放送であったが、テレビの普及に伴いテレビ放送を検討。会場候補の日劇(日本劇場:東京都千代田区有楽町)に打診したが既に正月は予約で埋まっており、唯一空きがあったのが12月31日だった。その為、第四回以降に開催される同番組は大晦日に決まり、初のテレビ・ラジオ同時放送を開始した。
尚、1973年からはNHKホールが完成した事により会場を日劇より当ホールに移し現在に至る。