団塊世代の想い出

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出来事

 主な出来事

血のメーデー事件
1952_1.jpg5月1日に行なわれた「第23回メーデー」では、警察予備隊の「再軍備反対」及び、皇居前の「人民広場の開放」を決議していた。
メーデー参加のデモ隊は日比谷公園で解散したが、一部のデモ隊が全学連と左翼系青年団体員に先導され警察官の阻止を突破、皇居前広場までデモ行進を続けていた。広場には、あちこちから無許可デモ行進を続けた約6千人の市民で埋めつくされた。これに対し阻止しようとする250人の警察官と衝突。デモ隊は投石やこん棒、竹やり等で執拗な攻撃を繰り返した為、皇居前の警察官は本部に応援要請。1952_1_2.jpg駆け付けた警官隊が加わり、総勢約2千500人の警察官は催涙弾を使用しデモ鎮圧化をみたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加した為、止むを得ず拳銃使用を許可しデモ隊に向け発砲それによりデモ隊は後退し事態は沈静したが、警察官側の負傷者は、重軽傷者約750名、外国人負傷者11名、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名に及んだ大惨事となってしまった。
この事件で、デモ隊1232人が逮捕され、261人が騒擾罪の適用を受け起訴された。
また、この事件の影響で10月1日に行われた「第25回衆議院議員総選挙」では、日本共産党は全議席を失ってしまった。

「もく星号」三原山遭難事件
1952_2_2.jpg4月9日、午前7時33分発福岡行の日航機「もく星号」が羽田空港を離陸した約30分後に消息を断った。日航や海上保安庁他、米空軍までもが出動し徹夜で捜索したが発見されず、翌10日朝になり伊豆大島・三原山山頂で墜落機体を発見した。乗客乗員37名全員の死亡が確認された。
しかし、消息を絶ってから発見されるまでの間、マスコミや警察当局も情報を入手する事が出来ず、そのため多くの未確認情報が錯綜し、「海上に不時着」「米空軍機が生存者を発見」「乗客全員無事」などの誤報が次々と報道されてしまった。
1952_2.jpgこの事故により運輸省は専門家による事故調査委員会を設け、原因究明に着手したが、結果、原因不明のまま捜査は終了した。
推理作家の松本清張は、この事件を題材にした「1952年日航機『撃墜』事件」や「風の息」などの著書で、墜落原因として米空軍が発表した墜落場所と実際の墜落場所が著しく離れていた事や、もく星号の近辺を米空軍機10機が飛行していた事実、墜落したもく星号の一部の部品を米空軍が持ち去っていた事などにより、「アメリカ軍機による撃墜が行われた」という説を主張したが、未だ原因は不明である。

『ヘルシンキ・オリンピック』日本が戦後初参加
1952_3_2.jpg7月19日から8月3日までの期間、フィンランドで開催された『ヘルシンキ・オリンピック』に日本が戦後初参加した。
1952_3.jpg平洋戦争終結後の1948年に開催された「ロンドン・オリンピック」には敗戦国の日本とドイツは招待されておらず、戦前の1936年に開催された「ベルリン・オリンピック」以来、16年ぶりの参加となった。
水泳の古橋廣之進選手を主将とする選手団72名及び役員31名が参加し、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八選手が大健闘し金メダルを獲得した。レスリング、水泳、体操でも銀メダル6個、銅メダル2個を獲得する活躍をした。

『ボクシング世界フライ級』日本人初の世界チャンピオン誕生
1952_5_2.jpg5月19日、東京・後楽園球場の特設リングにて日本では初の「世界フライ級タイトルマッチ」が行なわれた。
世界フライ級王者・ダド・マリノ(35歳、米国)に挑む挑戦者・白井義男(28歳)は過去に2度対戦し一勝一敗の五分の戦いをしてきたが、経験豊富なマリノが有利という予想だった。
会場には4万人の観客で埋め尽くされ、日本人初の世界王者誕生を期待した。
8時18分、試合開始。お互いに五分の戦いをしていたが、7回、王者マリノからの左フックを受けダウン寸前までのダメージを受けゴングに救われた。1952_5.jpg
しかし、8回には猛烈な反撃に転じ、逆に王者マリノに対し左ジャブでダメージを与えた。その後、両者共にダウンする事無く15回を終え、判定に。結果、3-0で白井義男の勝利。日本人初の世界チャンピオンが誕生した。
その後、白井義男は4度の防衛を果たしたが、1954年11月の対パスカル・ペレス(アルゼンチン)戦では判定で敗れ、また翌年の1955年5月「リターンマッチ戦」でも敗れた為、現役を引退した。

戦後初のスポーツカー「ダットサン・スポーツDC3 」発売
1952_6.jpg1月、日産自動車が戦後初のスポーツカー「ダットサン・スポーツDC3 」を発売した。
直列4気筒 860cc/20psのSVエンジンを搭載、4人乗りのオープンカーで価格は83万5千円。ニッサン・スポーツカーの先駆けとして期待を込め売り出されたのだが、1954年に製造を終了、僅か50台の少量生産に留まった。
後の1959年6月には後継機種として「ダットサン・スポーツ1000」を発売。更に翌年の1960年1月には「フェアレディ1200」が発表された。そして1962年10月に「フェアレディ1500」、1965年5月に「フェアレディ1600」、1967年3月には「フェアレディ2000」とバージョンアップされていった。これが1969年に発売され世界総販売台数55万台という当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立し、若者の憧れの的となった「フェアレディZ」へと受け継がれていったのだ。